
新潟滞在記(お仕事編)
(平成14年11月8、9日)
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お昼の新幹線にて新潟駅到着後、車にて隣町亀田町の「笹川小児科クリニック」を訪問する。彼女にとって日本で最初の医療現場見学となる。
彼女も少し緊張しているが、ドナーである笹川富士雄院長、奥様の笑顔の出迎えを受け、安心した模様。築2年目の真新しい院内の待ち合い室でお2人から話をうかがう。
その後院内を見学させていただいた。昼休みで、患者さん達はいない。スピードを押さえた判りやすい英語にての説明にノート片手に目を輝かせて説明に聞き入るパチャリンさん。診療室で笹川院長が示す子供用の玩具や院内の明るい雰囲気に彼女の自身も少しリラックスしてきた。質問にも少しずつ口を開きはじめる。現在、小児科専門医を目指して猛特訓中の彼女にとって、参考になる日本小児科医療の現場は宝の山。
現在、イサーンで毎日100から200人の一般内科外来診療を担当する彼女にとっての最大の悩みは1人に費やすことの出来る診察時間。数分、長くて10分の診察での限界を知っている彼女にとって、笹川院長の丁寧さに徹する診療哲学と言葉は彼女にとってとても貴重だ。
インフルエンザのワクチンの接種の説明には初めて大きな驚きの声をあげた。タイで接種をうけられるのは、ほんの一握りのお金持ちだけ。その他のワクチン接種状況など日本での医療状況に考え深げにメモをとる彼女。
院内の見学の後、同じ亀田町のさる保育園での乳幼児定期検診にも同行させて頂いた。園長さんの暖かい歓迎の後、昼寝時間で眠そうな子供達の検診に入る。診察にあたる笹川院長の傍らでその様子をジッと見守るパチャリンさん。
少し医師らしい素顔が。笹川院長の丁寧で優しい子供達の診察には大きな感銘を受けたと後に話す。また、年4回の園児検診が実施されているという話も彼女にとっては大きなショックだったという。イサーンでの医師による園児定期検診は全く実施されていない。
その後も、クリニックでの午後の診療の様子、乳幼児の栄養指導などきめ細かな説明をしていただいた。前述したように彼女は小児科専門医を目指しているが、その理由はと尋ねると、子供を病院へ連れてくる母親や家族への医療への理解と知識を伝えることも大きな目的だという。医療機関の極端に少ないイサーンでは、お金もかかる事もあり、また軽い病気と考えて放置し、病院へ着た頃には手遅れになるケースも少なくない。そのような事態を防ぐためにも、小児科医であれば子供を病院へ連れてくる親や村や地域の住民への病気への知識を診療と同時に伝え啓蒙することができる。それが彼女を小児科医へと向かわせる大きな要因となったと語る。
医療体制ではまだまだ未熟なイサーンで、そして絶望的な忙しさの中では診療の機会が唯一の住民への説明の機会ともなるからだ。ダルニー奨学金を受けていた中学在学中に貧困の村で病気の母親を亡くした彼女にとっては行き着く当然の想いなのかとも思える。
その意味でも、今回の笹川小児科クリニックでの地道な医療現場を知った意義はとても大きい。今回の新潟訪問での医療現場の見学は「自身にとっては最も重要な機会であり、最大の楽しみだった」と語る彼女だが、その目的がほぼ達せられたことはメモで真っ黒になった彼女のノートが教えてくれている。
診療に多忙で過密な毎日を過ごしながらも、2人の弟の大学の学費を捻出し、大学奨学金を返済しながら村の老齢の父親にも仕送りを続けるパチャリン。生活は決して派手ではない。新潟で彼女を迎えた我々の方こそ、彼女に学んだことが多かったように思えてならない。
講演会の時間も迫っており、笹川クリニックに別れを告げるパチャリンさん、もう少し留まっていたいような表情だが、我慢してもらわねばならない。新潟市国際交流協会での新潟市近在のドナーへの講演が待っていた。
あいにくの天気で雨が上がらないが、定刻に会場に到着、会場内へと入ると、既にドナー数名と通訳ボランティアの須田バーヤンさんが私達を迎える。
「サワッディー・カー!」突然のバーヤンさんのタイ語の挨拶にパチャリンさん、唖然とした様子。新潟市に在住するバーヤンさんは世話人のタイ語講座の先生でもある。
それぞれの紹介を終わって、彼ら2人には講演内容の打ち合わせに入って頂く。今日の参加ドナー数は30名程予定されている。座席の用意、ビデオのセット、配布物の整理などするなか、ぞくぞくとドナーが集まってくる。
定刻となり、時間も確保してあることから関東広報ドナーである梶原氏編集の新ダ連紹介、奨学金システムの紹介ビデオの双方を閲覧していただく。併せて、世話人と事務局高橋さんの挨拶など少々。パチャリンさんスピーチの前座といったところ。
さて、ドナーも会場一杯に詰めかけ、パチャリンさんのスピーチとなる。民際の15周年記念行事でもお聞きした方々が多いと思われるが、概要はこちらへ。

パチャリンさんに同行して新ダ連会員と高橋さん一行6人が「長岡ダルニー連絡会」の世話人、木村嶺子氏の医院に到着した時、折しも休診の医院で彼女は同好の料理仲間と共に、我々の為に腕を奮っていた。
我々は診療の終わった診察室を抜け、2階へと案内される。そこは戦場、いや、「お弁当屋さん」の厨房といった雰囲気。楽しい料理仲間が忙しく、昼食の料理準備に余念がない。そして三角襟で髪を覆い、指揮を執る活動的な長岡ダ連の世話人、木村嶺子氏が中心にいた。
珍入した我々6人分の食事の用意も終わり、料理仲間6人と共に席につく。合計12人の賑やかな昼食となった。パチャリンさん、一体何が始まったのかと少し戸惑い気味。それでも、晩秋の献立に「美味しい」を連発。「アジのたたき」にも戸惑いなく箸をつける。栗ご飯も香り高い・・・。
食事も和やかに楽しみ、木村嶺子氏とダルニー奨学金との関わりについて経緯などをうかがった。ラオスへの学校寄進の背景と経緯、永年のドナー経験、それらに対する周囲の人々の反応、逗留させていたラオス留学生との心の葛藤など、1ドナーとしてダルニー奨学金に貢献してきた彼女の想いと悩みが次々と口を突く。色々あったようだ。
奇しくも長岡市在住の彼女は秋尾代表が受賞した「第4回米百俵賞」の選考委員の1人でもあったという事実はもう隠す必要もない時効であろう。そして、「民際の1ドナーの私には、さすがに自分では秋尾さんに1票を入れられなかったわ・・」との告白を以前彼女の口から聞いたことがあった。正大な気骨の世話人である彼女、そして、百年にも渡る歴史的医院「北嶺館」を背負ってきた初めての女性の院長の呟きでもある。
木村氏がパチャリンさん取材の為、地元長岡新聞社より訪問した記者と高校の同級生であることに奇しくも気付いた取材会見では、話にも三十年前の和やかさが加わった。パチャリンさんがイサーンから運んできた彼女への幸運のご褒美かも知れない。記者取材の後、階下の医院をパチャリンさんを連れての案内となる。異国の同じ女医同士の写真をと記者の撮影にも熱が入る。勿論、私のカメラもだが。セーター姿の木村さん。「先生、白衣を着て下さいよ」との記者からの要望にも、「あら、やらせじゃないの?」と苦笑しながらも嫌がる様子も見せず白衣を羽織ってくれる。
取材前、料理教室に加わっていた彼女の親族男性が、帰路をわざわざ戻って奨学金支援を事務局の高橋さんに申し出た時、彼女は何も言わずに、微笑みながら困ったような表情を作った。彼女は、身近な親族には奨学金の勧誘をしていなかったのだろう。いや、出来なかったのではないのか。あたかもそれがギリギリの彼女自身の良心への弁解となると確信しているかのように感じる。刹那的な激情に絡(から)んでの支援はして欲しくないとの確信に満ちた想いが、そして恐らく支援の「意味と現実」を経験してきた者の想いが、無言と躊躇(ためらい)いを彼女の表情に無意識的に誘い出したのかとも思える。
取材を終わって、パチャリンさんも新幹線で東京へ戻る刻限となった。我々もそろそろ新潟へ退散しなければならない。別れ際にふと気付いた。私の錯覚だったのだろうか?長岡ダ連の世話人、木村嶺子氏の表情が来訪時とは明らかに異なる。何か、憑き物が落ちたように柔軟な優しさだけが表情に見て取れた。
「赤石さん、私ね、やっていて自分が楽しいと思うことだけをやることに決めたの」との別れ際の彼女の言葉・・・。帰路、その言葉が不思議と私の脳裏に焼き付いて離れなかった。あるいはとの「懸念」も一瞬確かに内部を過(よ)ぎった。しかし、それは私がこれからダルニー奨学金支援を続けていく上で覚悟し、越えなければならない事柄を予見するものであり、そしてきっと同じ想いに行き着く「私自身」をも予言している彼女の言葉とも感じられたのも確かだった。そして今、何となく私なりに朧気ながらその輪郭は理解できたと思う。
旧奨学生であるパチャリンさんの新潟訪問は、県人ドナーに種々の想いを確認させ、具体的な支援の意味を彼女自身の「過去と現在」、そして「言葉」で示すものだった。そしてそのことを示すに充分な資格を備わったパチャリン医師だった。彼女自身が意識している以上に広く、深くその意味を個人、個人に問い正した新潟での滞在だったように思われる。
長岡ダ連の世話人、木村嶺子氏。私は今では彼女が世話人を辞退するのではとの「懸念」を全く持っていない。あの別れ際の彼女の言葉は、ただ、素直に自身の良心に納得できる形の支援活動であり続けたいとの願いを語っただけのように感じている。私も彼女のそんな想いを素直に受けとめ、世話人として自身の指針としたいと切望するだけである。