
この記録は、平成12年8月上旬、新潟市「ふるさと村」において展開された「新潟ドナー連絡会」民際交流センター「広告ブース」展示の顛末を史実に少し基づき、また、多くを脚色して記録されたものである。資料としての価値ははなはだ低いと言わざるをえない(世話人IIコメント)。
「どんな団体ですか〜?」
申し込み期限をとっくに過ぎているにしてはやけに感触のよい声ではないか。スナックのお姉さんか、タイシルクような声だ。しかし、電話の相手の声には最初に告げた聞き慣れない団体名に対する微かな、いや、鮮明な警戒心も感じられる。この点は私の隣に座った時のスナックのママさんの声の様でもある。
「あ、いや、怪しい団体ではありません。あの、政治も宗教も関係ありませんので...(聞かれてもいないのに!)。タイとラオスの子供達の奨学金支援を行っているNGOです。「民際交流センター」の新潟ドナー連絡会と言います」
こちらも遅れて申し込み、心に大きな引け目を感じているため声のトーンが高く、いつもの威厳に満ちた声とはほど遠い。試験に落ちて私の研究室へ点数乞いにやって来る女学生と同じ声調ではないか!
「え?ミンサン、ドナー?臓器提供か何かの...?」
「(こ、この女性は人の話を全然聞いていないではないか!)いえ、民・際・直流センター、いや、ちがった、交流センターです。民子のミン、男女交際のサイです。奨学金支援団体です。ハイ」
東京の民際交流センター事務局からの連絡により、新潟県で「アジア文化祭2000」が開催され、その参加NGO団体を募集しているとの連絡を受けたのは、参加締め切りの4月17日を遥かにオーバーしていた6月初旬。
締め切りはとっくに過ぎているのに、「新潟ドナー連絡会」としての参加登録要請をしてくる民際事務局も事務局だ!しかし、根が善良、正直で疑うことを知らない純真無垢な連絡会世話人の私はついついその策謀に乗ってしまった。これが、その後の「熱き新潟、夏の陣」の幕開けとなろうとは一体誰が想像しただろうか?
そして冒頭のやり取りが、慌ててその日に申し込み電話をした際の実行委員会のお姉さんの応対であった。しかし、結局は詳細を認(したた)めたFAXを県の実行委員会宛に送ることとなった。
最初からそう言ってくれれば良いのに!しかし、慈愛と善良さ、そして熱意に満ち溢れた電話での私の話が、実行委員会の眠っていた真心を打ったのかも知れない。従って、それはそれで由(よし)とすることとした。
何とか、いや、当然ながら実行委員会からはオーケーのFAXが届いたのは明けて翌日のことであった。何々?参加NGO団体の打ち合わせ会議が県庁であるから集まれ?小役人どもの巣窟である県庁へはパスポート申請で入ったきりだし、新潟県民の義務として1度は新築の高層県庁に足を運んでみようと常々思っていた。
それに、最上階の展望台も魅力はある!しかし、展望台はあくまでも「ついで」として寄るので、「目的」ではないと自分に言い聞かせながらも何故か心がざわつき、カレンダー上の当日の日付に◎をつけてしまう。
当日は何故か1時間も余裕をもって到着してしまったので、仕方なく時間潰しに展望台へ登ってみることとする。大学人は常に余裕をもって行動しなければならない。展望台からの景観を手摺(てすり)から身を乗りだして、いや、落ち着いて楽しみながらも、真下にある不祥事続きの新潟県警本部ビルより遥かに高い位置に自分がいることを確認することも忘れない。
母親にせがんで備え付けの望遠鏡に100円玉を入れている騒々しい子供とは反対側の回廊へ回り、そっとカバンより質流れで手に入れた双眼鏡を取り出す。馬鹿な子供だ、準備は常に怠ってはならないのだ。
会議室へは参加団体中1番に到着し、役人の儀式とも言える「名刺交換」を済ませて落ち着いて着席する。景色の展望できる窓側の席を選ぶ冷静さも失ってはいない。定刻になり、合わせて11団体の代表が顔を揃え、資料を眺めながらの説明に入る。
団体の「自己紹介」の段となり、9番目に立ち上がって「民際交流センター」の紹介に入る。番が回ってくるまでに時間的余裕もあり、自分でもなかなか良い調子であった(9番目というのもさい先が良いではなあいか!;理由はタイ事情通へ)。
民際事務局の失態により遅れて登録したにも拘わらず、参加が許可された事への謝辞も忘れない。ここでは私の失態では無いことを繰り返し明言しておかねばならない。輝かしいかも知れない将来のためにも、自己の失態があってはいけないのが大学人なのだ。
また、自分には常にそうであるが、他人の失態にも寛容であるべきであろう。何故かルックスの良い男子学生の失態にはやたら厳しく当たってしまう今の癖も今後改めねばならない。
かくして、8月5、6日両日の民際交流センター「広告ブース」の出展が決定し、「熱き新潟、夏の陣」は大上段へと入ることとあいなった。
「転回」
「新潟ドナー連絡会」世話人である私の呼びかけによって、新潟市内、近郊より多くの善良なドナーが結集したのは、ブース展示予定の1カ月前の7月5日のことであった。会場の新潟市国際交流会館会議室は、超満員のドナーの熱気に満ち溢れており(部屋がとても狭いので)、ドナー連絡会としての決意が開会前から張りつめていた。
事の起こりから経緯までを話し、また、登録の遅れについても世話人ではなく、東京民際事務局の失態であったことを明言しておくこととする。また、それに対する寛容さも併せて披露しておくことを忘れてはならない。
しかし、結集したドナーはそんな私の言を聞いているのかも判別できぬほどに(いや、全く聞いていない!)燃えていた。攻撃目標はすでに各々のドナーの熱き胸中にあって、それへ向けて玉砕の覚悟すら感じられるほどの熱い視線を痛いほど浴びることとなる。
「やりましょう!!」
あちこちから挙がる鋭い歓声と雄叫び。感涙にむせぶ一瞬であった。しかし、我が軍には、いや、我が連絡会にはブース展示の経験も無く、また、そのノウハウすら知らないことに皆が気付くまでにはそう時間はかからなかった。その時であった。1人の兵が、ではなく、1人のドナーが発声した。
「私達なら、フリーマーケットの経験があります!」
隅に控えていた「黄色いチューリップ軍」の厳(いか)つい女性ドナーであった。心強い味方を得、一同おおいに盛り上がりを見せる。あと残るは武器の調達である。その点に抜かりはない。だからこそ「世話人」なのだ。必要な武器、いや機材は善良なる武器商人、民際交戦センター(?)から直前に送られてくる旨伝達すると、さらに大きな歓声が空高く響きわたる(室内だから、天井高くか?)。
武器の準備、兵の志気は万全であろう。残るは模擬戦、あるいは演習戦となる。幕末の士、高杉晋作の起こした「奇兵隊」さながらのゲリラ戦に打って出るか?あるいは、破竹の勢いのマケドニアの王、アレキサンダーのように正面よりの撃破を目指すか?決断は私の肩に重くのしかかっていた。
(この戦いは、タイそしてラオスの子供達の為の聖戦「ジハード」である。熱血の軍団は、ただその奨学金獲得の為、一丸となって「滅私奉奨学金」の旗の元、ボロボロになるまで戦い抜く為のみに存在する。武器は乏しく、また、一部を除いて兵の経験も浅い。しかし、19世紀の英断のタイ君主、チュラロンコーン王は同様の状況でそれをやり遂げたではないか!やはり、正面突破しかあるまい。兵を信じよう!)
心中の迷いは朝の薄霞の様に晴れ、暮れて決戦1週間前の模擬戦を迎えることとなった。
「援軍」
7月30日未明、1週間後の決戦を予感させるような熱波が新潟を襲った。「神風」が日本海側へ抜けた為のフェーン現象だと言う。午後2時、水銀柱は既に37度に達しようとしていた。軍団は精鋭なれど老兵も多く、この暑さは堪(こた)える。しかし、そんな世話人の心配をよそに、ぞくぞくと精鋭達が参集してきた。甲冑(かっちゅう)に身こそ固めてはいないが、内部から迸(ほとばし)る血気は人並みではない。
家宝のタイ土産(枕、スカーフ、T-バック、ではなくT-シャツなどなど)を持参し、ブースで販売してくれという申し出まである。また、当日は参戦できぬが、せめても今日くらいは手伝いたいという有志もいる。何度、目頭を拭ったであろうか?
一同が会した所で、民際交戦センターより送られてきた武器を点検し、我が方の戦術を伝達する。正面突破とする旨伝える。オーッ!というどよめきの中、戦列布陣を伝達してゆく。
1番隊は、斉藤秀忠軍、歴戦のモサである。彼はタイでの戦闘経験も長い。2番隊は、五十嵐喜八衛門軍、かつてはこの「新潟ドナー連絡会」軍団を率いたこともある勇猛果敢な老将である。3番隊は…。次々と呼ばれる名前に歓声が上がってゆく。そして、最後に、
「本日、関東圏方面より援軍の派遣が決定した!」
という口達に、一瞬、沈黙があったかと思うと割れるような歓声に城内(場内?)が満たされた。お互いの肩を叩きあって頷きあい、目頭を濡らしている者さえいる。
民際交戦センターから援軍の派遣に関する電子隠し文が私の元に届けられたのは先週であったが、敢えてこの時まで兵には伝えずにおいた。そのことによって援軍への依存心が生まれることを懸念したからである。智将と呼ばれる者の器量はこうでなければいけない。
かくして総てが整った!後は戦場へ赴くだけである。来週に迫った戦での健闘を誓いながら夕暮れに紅く染まった新潟の街へ三々五々兵達は散っていった。折しも、この夏の新潟市最高気温を記録した日であった。
「ジハード、そして緒戦」
昨夜は軽い興奮状態にあった為か、眠つけず。明け方の一番鶏の時の声に目を覚ます。障子越しに聞く雀の鳴き声を聞きながら、差し込む朝日の中しばし黙考す。
(やるべき事は総てやった。後は天命を待つのみ。仏の御心のままに、アーメン、ハレルヤ。爽やかな霞の中、思考の内部は冴え渡っている。よし、やるぞ!との強い決意が内部にムクムクと広がって行く!自信に溢れた含み笑いすら湧いてくるではないか!フッ、フッ、フッ!)
「お父さん、何を笑っているんですか。早く起きて下さい、涎(よだれ)まで垂らして、遅れますよ!」
「ムム、ゴクン!ア、夢か?アリャ、いかん!寝過ごしてしまった!」
昨夕、ブース展示会場の「新潟ふるさと村」へ出向き、全体のアングルは斉藤秀忠軍、じゃあない、斉藤秀男氏と決めてきたので、不安はない。いや、やっぱりまだ不安だ。とにかくも、早急に会場へ向かわなくては!
信濃の河の朝靄を分けて、会場へはせ参じる。歴戦のモサ、斉藤軍はさすが既に到着し布陣している。砦の準備に抜かりはない。御旗印の「民際交流センター」のパネルも燦然(さんぜん)と輝き、我が方のブースを金色(こんじき)に照らしている。
近代兵器のビデオも側面に設置、「鶴翼(かくよく)の陣」は完璧なまでに出来上がっている。最前列には、敵方の注意を引くための囮の品々(販売品)を並べ、その後方に狙撃隊、突撃隊そして遊撃隊を配置することとなる。
最初の突撃隊に自ら志願した荒川照寿軍は、ご高齢でもあり皆の心配を一身に受けていたが、溌剌(はつらつ)として四輪駆動騎馬姿にて駆けつけ皆を大いに盛り上げる。5番隊を率いる本間大之進軍にあっては、勇ましくも麗しき奥方を同行され、奨学生の為一命をも投げ出す覚悟とも推察されたり。
かくも布陣、隊列、そして志気は完璧であり、緊張の中、来たる戦の火蓋を切る瞬間を今か今かと待ち受けていた。また、我が陣営の両翼には、志を同じくするNGO野戦軍団が布陣し、幾つもの敵将の首を上げんと敵勢の到着をジリジリと待ち受けている。
辰の刻五ツ半を回った頃、甲高い法螺(ほら)貝の音、ではなく「ふるさと村」アナウンス嬢のアピール館の開場を告げるこれまたタイシルクのような麗しき声が遂に戦場内に響きわたった。
「おはようございま〜す。ただ今から「ふるさと村」アピール館での販売を始めます。ふるさと村にお越しのお客様は...」
合い言葉は?
「イサーン」、「ラオス」
「よし、ゆくぞ!」
皆、皆お互いの志気を確認するかのように見つめ合い、配置につく。鎧(よろい)、ではなくG-パンの緒を胴にてギュッとしめ、姿格好は笹団子に似たりとも、今は構わず!
来た、来た!我らが待ち受けるとも知らず、いかにも楽しそうにこちらへ敵軍がのんびりと行軍して来るではないか!ブルルッと武者震いすら感じつつ、奇襲は成功したと確信する。
「トラ、トラ、トラ、我、奇襲に成功せり(真珠湾じゃあるまいに)!」
敵軍の雑兵がドナー軍配備の囮の品々に一瞬気を取られた隙であった。
「よし、今だ!かかれ〜え〜!!」
誰ともなく発せられた号令に、ドナー軍は敵側面から猛然と攻撃を開始していった。かくして「ジハード」の緒戦は鳴門巻のように渦を捲いて切って落とされたのであった。
「もうひとつのジハード」
待ちわびた関東圏よりの援軍到着の報が届いたのは午の刻を回った頃であった。援軍を率いるは、畏れおおくも、賢くも「民際交戦センター」城主、秋尾晃正公〜お。関東ドナー軍団屈指の三遊撃隊、慶句隊、喜庵隊そしてバイシー隊を引き連れ、さらには途中、「長岡ドナー連絡会」城主、木村嶺公軍と合流しての堂々の越後入りとあいなった。
情報戦、撹乱戦法を得意とするTAK参謀の助言もあり指揮を取る秋尾公、木村嶺公はひとまず、新潟市中の「茶臼山」、じゃあない「燕喜(えんぎ)城」にて陣を張ることとなる。鼻血も漏れるほど血の気あまたな三遊撃隊は、TAK参謀止めるも聞かず戦場へと駆けつける。
折しも戦場の「ふるさと村」では敵味方入り乱れての激戦となり、一進一退の戦況にあった。パパン、パンパン!
「斉藤氏(うじ)〜い!」
「おう、バイシー氏か?遅かったぞ!やや、慶句、喜庵氏もか!」
ニヤリと不敵な満身の笑みが漏れる。斉藤秀忠軍とバイシー軍は、かつてタイ王国イサーンにて歴戦を共にし、「戦場のトムとジェリー」とも称された盟友である。しっかと手を取り合い、再会の感涙にむせぶ間も惜しみ、斉藤、バイシー両軍は敢然と刃(やいば)ではなく、「配布用宣伝ビラ」を構えて怒涛の戦場へと消えていった。
両軍を見送る慶句、喜庵の両軍将はそれを見届けるや、後方の支援へと向かった。後方陣中にて2人はイサーンより持ち帰った誠にきらびやかな甲冑姿に変身し、「鶴翼の陣」正面にその強力なる陣を敷いた。これに力を得て、新潟ドナー軍団の戦い振りは益々その本領を発揮したのは言うまでもない。
その頃、「燕喜城」では、三遊撃隊と交替し、戦線を一時離脱した世話人が二公に合流していた。また、TAK参謀の手配によって、「新潟電影社二十一(NT21)」の撮影陣が入城したのは同刻、午の九ツ半を回った頃であった。敵軍の大将首を上げ、全国譜代の「地方連絡会」の志気を盛り上げんとTAK参謀の画策した巧妙絶後なるもう一つの戦い、「新潟情報宣伝戦、夏の陣」が今まさに始まろうとしていた。
外からは不可視のサングラスの奥に秘められたTAK参謀のつぶらなドングリ眼(まなこ)は、天津甘栗にも似て非なるが、その外見ほど甘くはない。奥に秘めたる非情の決意!それとは裏腹の「ガトリング銃」、いや「ウージー」にも引けを取らぬ口舌自慢!向かうところ敵なし(たぶん誰もそのスピードには追いつけない)!
数々の武勲を手中に納めてきた民際事務局の「隠し刀」とも称されるその四輪駆動の足回り!(ああ、疲れた、このくらいでええか?ダメ?ええい、最後にもう一つ!)そして、不可能とも噂される中、地獄の減量をも貫徹する強よ〜い忍耐力!革マル戦士も舌を巻くその姿にて飯田橋から東京へ、連日の脱水サバイバル行軍は今や神話か?はたまた、伝説か?
これらは一日にして培われたものではない。雪深い越後は菅ケ岳(すがなだけ)の麓の山里で、物心つきし頃からの修行に明け暮れる毎日、そして、若くして天性の舌自慢を生かした「エゲレス語」修行に飛び立った〜。いかん、いつのまにか話がずれてしまった。軌道修正、修正!
それは、さておき、「燕喜城」内の奥の間では、着々と宣伝戦用の電影像が厳かに、かつ厳粛に収録されていった。仕上げの善し悪しは16日午前9時55分、NT21をご覧(ろう)じろ。見逃した御仁は民際事務局の武器保管倉まで。
「祝勝の宴」
祝勝の宴たる会場は、新潟市中においても最も豪奢はトイレ設備を維持していると噂される某国立大学医学部「学士会館(こんな名前にも東大コンプレックスか?アー情けなや!)」内にある「グリル有壬」。その清潔さはタイ王国のトイレにも引けを取らない。
奇しくも、また罰当たりにも戊申戦争による犠牲者達の墓地群の真上に建立され、度重なる「鎮魂のお払い」にも拘わらず夜な夜な維新の亡霊達が徘徊する場所でもある。別名「招魂会館」とも称される故、利用者も少なく、経費もお手軽!また、週末の夕刻ともなると、時々金髪にピアスの若者カップルが「モーテル有壬」とも間違って車を乗り付けるほどドハデな品格を備えた門柱が燦然と丘の上にそびえ建っている。
世話人でなくとも、建立時に名前入り外壁パネル一枚と引き替えに10万円もの寄付金をもぎ取られた恨みからか、こんな噂も立てたくなるというものだ!
ポルターガイストの遺恨か、はたまた経費節約か?世話人がモーテルノではなく同窓会館に到着した時刻には、待合いロビーの冷房は作動せず、我が「お喋り愚息」の車にて早めに到着した長岡連絡会城主、木村嶺公はともかくも、TAK参謀は暑さの中で息も絶え絶え。
「ウーッ、暑!ネエ、これって私の減量の為?」
「(ウッ、鋭い!)いや、多分故障でしょう?ハ、ハ...」
額に滲む脂汗(あぶらあせ)。そんな話題ははぐらかし、祝宴会場の下見に足を運ぶ振りをする世話人であった。
開宴時間も迫り、戦利品を引っ提げた老若ドナー戦士達が参集してくる。いずれの顔も晴れがましく、開宴前から今日一日の武勇伝に花が咲く。そこへ合わせたかのように乱入したののが「新潟電影社21」のカメラであった。
このカメラ潜入に関しては、会場の利用申請時に大きな波乱があった事を白状しなければならない。会場となった同窓会館の使用管理責任は、かつては駅弁大学(お米の美味しさからか?)として名を馳せた某国立大学医学部の事務局にある。その無能(不能ではない)ぶりには兼ねてから定評があり、「NGO取材のため新潟電影社カメラ、同窓会館に入る!」というという経験未曾有な利用申請の連絡が、担当事務官の頭を「真〜っ白」にしてしまった。
特に直接の対応にあたる小心な係長の狼狽ぶりはすさまじかった。恐らく、彼の頭には「浦賀沖に来航した黒船」が蘇ったのではなかろうか?そもそもNGOとは一体何なのか?スナックの名前にも似ている。また、何故に電影社が本学同窓会館の取材に?あの少々、いや大酒飲みではあるが、人望も厚く精錬潔癖な世話人先生が何故に悪魔の手先に?(浅学な彼はこの時点でNGOと新興宗教をどういう訳か混同してしまった、Niigata God Organization ??)
いや、あるいは、ひた隠しにしていた同窓会の不正経理が発覚したのでは?そうなると、内容を読んだこともないが公務員倫理法に触れるのではないか?そして、遂には、何故かいつも悪夢のように行き着いてしまう結論。これで自分の首が飛ぶのではないか?「懲戒免職」という言葉が脳裏をかすめる。愛する家族はどうなるのか?行きつけのスナックのツケは誰が払うのか?いや、事によると、この前の「浮気」までばれるのではないか?などなどと、総てが彼の理解と能力を越えていただけに、妄想と混乱の極みにあったようだ。
幕末の京都御所での混乱にも似て、オロオロ騒ぐばかりで進展が無い。結局、早朝から訳も分からず事務局中を混乱させ、申し込んだ世話人の所属する講座にまでその余波が押し寄せた次第であった。教授の一喝にて、その場は収まったが、出来れば伏せておきたい世話人の私的事情が白日の下に講座中に曝(さら)された事情があった。また、かの係長も事務局では暫く話題の中心人物と相成り、ひっそりと語り継がれたのであった。今回に限らず、集団において一度(ひとたび)騒動が起きると、誰が有能で、誰が無能かを炙(あぶり)り出してくれることは興味深い。おおいに勉強になる機会でもあった。
かくして、電影社によるドナー戦士へのインタビューと相成った。緒戦を飾ったドナー戦士達でもちょっと興奮、緊張気味である。後でその電影放映を見たが、皆さん良く、克つ晴れがましく映っておった。
インタビューも終わる頃、秋尾晃正公が関東三遊撃隊、慶句、喜庵、バイシー氏を引き連れての堂々の入城とあいなった。事前に越後自慢の銘吟醸酒「越の#梅」「麒麟#」の用意を告げてあった事もあり、三遊撃隊においては戦場よりも目が血走っているように思えたのは錯覚か?
喜庵氏は、きらびやかなるイサーン甲冑姿に素足の登場に会場もやんや、やんやである。その喜庵氏が肩より掛けたる木綿のカラフル、イサーンバック。何故か決して人には触らせず。武勇の武と称される「鉄人(お硬いから?)」にあって、何故か似つかわしい(しかし、似合っているとの声もある)。あるいは、内部に・イサーン婦人の思い出が・?いや、いや、あるいは「リカちゃん人形」が?いや、まさか、いや、そんな、ウッソー?周囲の羨望と詮索をよそに、幸せ一杯にて冷た〜く冷えた「越の#梅」へとすり寄る喜庵氏であった。
秋尾晃正公もいたく越後の御酒を気に入られ、今宵もきっと二日酔い。明日の朝、昨宵のことを憶えているかとTAK 参謀心配よそに、新潟ドナーに熱く説く。それにしても酒の席でも長き談かな、かつ難解なる話にて、民際事務局定例会議でもまともに聞いているのは蓮尾事務局長1人のみとも伝え聞く。いずれにしても、「伝説の優しき巨人」。越後の兵は一言たりとも聞き逃すまじと、目を皿に、そして、耳をダンボに聞き入っている(かく言う世話人は聞き流しながら飲んでいた、いや、飲み流しながらながら聞いていた?)。
慶句氏持参のラオスの映写、伝え聞く通りの惨状に、目、耳をも疑う有り様なりや。盛り上がる祝宴の中でも冷静な、慶句氏の慈愛に満ちたボランティア。写真の腕は言うにおよばず、その髭面(ひげづら)も言うにおよばず、そのラムネビー玉にも似た、克つ、悪戯童子(いたずらわらし)の様な眼(まなこ)には何故か不思議なミステリー。その眼には戦場から戦場へ、イサーン、ラオスを縦横無尽に駆け回り、総て見聞したる後の優しき慈愛を秘めて、かの地の無邪気な子供の悪戯心を映している。心の中に棲みたるは、サン・テグジュペリの王子様。
♪いつも2人は仲良しで、イサーンの村でも片時も、忘れずビールの旨さを分かちあう、研修団では名を馳せた「戦場のトムとジェリー」♪こと、斉藤、バイシー両氏はどっかと座して杯を酌み交わし、旧友を暖めている。しかし、お腹はビールで冷えている。今日一日の苦労を分かち合い、共に配ったビラ数、一千枚(四捨五入?)!これもひとえにイサーンとラオスの子供の為と、ムサイ顔立ち裏腹に優しき心が宿っている。二人の手首に捲きたるは、白い木綿の誓いのバイシー(聖糸)。熱き友情、ドナーの絆!!きっと今夜も2次、3次会へと突入か?
かくなる訳で、祝勝の宴はウエイターがハラハラするほど和やかに克つ賑やかに、時間を延長して続いていった。かの「維新の亡霊達」も今夜は出番がなかりけり。月は満ちて佐渡の沖、遠くにありて島影を映し、満天の星々は越後の空に蒔(ま)かれたり、賑やかなドナー達の歓声は夜遅くまで静まることはなかった(確かに、二次会でこのことは何度となく実証された!)。
「明けて2日目」
翌早朝、明晰なる我が世話人頭脳のニューロン勢は、体内でアルコールより転化せしアセトアルデヒド軍と睡眠物質軍を相手に絶望的な攻防を続けていた。犠牲となった戦死ニューロン数は既に二〇万にものぼる。そして、それに続く奥方の強烈なカウンター攻撃!
「起きて下さい!お父さん!遅れますよ!」
「ウ〜ッ、気持ち悪!しかし、行かねばならぬ、行かねば...ウ〜ッ!」
冷た〜い大吟醸のような奥方の視線、軽蔑と嘲笑など気高い信念の前では問題ではない!それに結婚以来、そんなものは数え切れないほど浴びている。それにしても今朝は、崇高なる信念と断固たる決意がいつになくムクムクと内部、いや胃袋から湧き出て来るではないか。ウ〜ッ!湧き出てくる場所と物が多少異なってはいるが、それはそれで由(よし)としよう。
毎朝、欠かさず「頬摺(ほおず)りニャンニャン」をする我が愛猫も、何故かその鼻をヒクつかせて近寄って来ようともしない。やはり、何か崇高な近寄りがたい雰囲気、あるいは内部から湧き出る緊張感を毛肌で(鼻で?)感じているのであろうか。畜生と言えども天晴(あっぱれ)れなる猫である。
我が愛猫にも似て、四足歩行にてからくも2日目会場へと到着する。先陣である。時を同じくして、本間大之進氏と奥方がクーラーバックを肩に駆けつける。暑中の兵糧は総て用意されたとみえ、その決意は昨日と変わらず見事ならずや。
しかも、本間大之進氏と奥方は前半四時間もの布陣を申し出られていた。その覚悟、気力は並々ならず。ご夫婦の、そして奨学生への愛のなせる技。続いて斉藤氏、関東三遊撃隊、秋尾晃正公、そしてTAK参謀も駆けつける。昨夜の旨き「新潟の水」をたらふく得て、酒気、ではなく血気盛んである(なお、TAK参謀は下戸であるので誤解無きよう)。
昨日の布陣の反省から、智将世話人の決断にて今日はブース最前面へ出城を築く。まさに、「大阪夏の陣」における「真田丸」であ〜る。囮の軍勢を最前面の出城に配置して、敵を呼び込む。前面に掲げたるその旗印「顔の見える国際交流」。
世話人の奥方操るワープロにて、一晩かけたるその成果!その御旗印に誘い込み、その虚をついて、周囲から反復攻撃となる次第。クラウゼビッツ(1780〜1831)もまっちらけ、日本古来のゲリラ戦略が新潟「ふるさと村」にて白昼堂々展開されているとは、幸村公もご存知あるまい!
戦況も明らかになってきたその日の午後、秋尾晃正公と木村嶺公、慶句隊、喜庵隊、TAK参謀は東京へと馬鼻を向けた。心地よい疲れの中での別れであった。次に見(まみ)えるはイサーンの地か、はたまたラオスの地か?互いの功を讃えあい、涙、涙の別れであった。バイシー隊は斉藤氏との聖糸の契りもあり、しばし新潟の地に残り、最後まで見届けることとあいなった。
「エピローグ」
関東圏援軍なきあとも、新潟ドナー軍団の戦いぶりには緩みはない、と思われた。しかし、油断はいずれの歴史でも明らかなように、そのような時に訪れる。勝負もほぼ決し、敵将の首を数えるためもあり、新潟ドナー軍の面々は「ふるさと村」茶室にて今回の戦の反省茶会を開催した。ブース閉店までわずか一時間前のことである。
ブースを空にするわけにもゆかず、世話人の「おしゃべり息子」、当年とって一九歳にその留守を申しつけた。奇しくもその時、一大事が起こった!!「アジア文化祭」は新潟県主催のイベントであり、最後の最後に各展示ブースに主催代表者として新潟県知事閣下の展示ブース挨拶回りとなったのだった(急に予定を変えるなっ、ちゅーの!)。
知事は、何やらにやけて面白そうな(実は顔が引きつっていたのだ!)若者一人にてブースを死守している事に興味をもったのか、あるいは冷やかしてやろうと思ったのか、我が民際ブース前で足を止めた。その時の子息の緊張たるや、言語を絶するものであったろう。
教授回診か、はたまた大名行列のように知事を先頭に、イベント役員、報道関係者、その他何やらゾロゾロと連なり、その行列が自分の死守するブース前でその歩みを止めたのである。子息の心臓も止まった!
カメラマンはパシャパシャとシャッターを切るし、ブース前は黒山の人だかり。さすがの「おしゃべり息子」も頭真っ白、思考停止、呼吸も停止、酸欠状態チアノーゼ。何やら自分に向かって知事が金魚のように口をパクパク話しかけているらしいことは理解できたが、その内容は今では全く憶えていない。
また、自分が何やら返答したらしいがそれすら記憶に無い有り様であった。かろうじて、「げに民際交流とは耳新しき造語であるらん」とか何とかと言った事が子息の緊張飽和状態の脳髄に食い散らされた一片のパン屑のように残ったのみであった。
世話人等が会議を終えてブースへ戻った時には、自失呆然として、ボロ雑巾のように椅子に寄りかかり、息も絶え絶えの子息の姿を発見した。
「やや、進之介!如何いたした!しっかりせい!」
「あ、父上、ハラヒレホロロ」
その後、錯乱を鎮めた後、子息の身に何が起きたのかを理解したが、世話人としても良い教訓であった。
思うに今回の「新潟、熱き夏の陣」は新潟ドナー間の結束、相互理解など、新たな奨学金獲得にも勝るとも劣らない収穫があった。回顧してみると、秋尾代表の「米百俵賞」受賞に始まり、長岡、新潟ドナー連絡会、事務局および関東圏軍団との連携、アジア文化祭での民際ブース展示計画と予行、そして本番、また、テレビ取材と目まぐるしくも心浮き立つ数ヶ月であった。
関与されたドナーそれぞれで感慨は異なる。しかし、再びこのような機会があれば、必ずや同じドナーの顔ぶれが揃うことは断言できる。いや、さらに多くの新しいドナーの汗にまみれた協力が得られることを信じたい。
展示ブースを背景に奨学生の写真を手に写真撮影を世話人に依頼したドナーがおられた。それを奨学生に送るのだという。彼ら奨学生が我々一人一人では非力のドナーに大きな力を授けてくれている事を実感した一瞬でもあった。