(平成14年2月12日)


 秘境ダクチュン
(ラオスの飛騨白川郷)
 「ラオス奨学金」対象地であるセコーン県の知られざる山岳少数民族「ダクチュン」!!民際交流センター・ラオスの奨学金調査に同行した広報ボランティアの「慶句」さんのダクチュン訪問記!!

撮影:青松秀幸、梶原俊夫両氏






  
 ダ ク チ ュ ン



「慶句氏」近影



 ラオス南部からベトナムへ向かう途中の高原は、ベトナム戦争時の不発弾が30年を経た未だに残っているという。観光ビザでは決して入ることは出来ない地域だ。

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 秘境ダクチュン(ラオスの白川郷)


はじめに

 ラオス南部チャンパーサック県の中心都市パークセーから北東にクルマで約2時間、コーヒーの産地ボーラベン高原を上って行くとやがてセーコーン県に入り、県庁所在地ラマームに至る。わたしたちダルニーのスタッフと、校舎建設および広報ボランティアの一行6人が、中部カムアン県から南下してきてここで所用を終えたところへ、同県のターウォーン教育長(46)から「明日用事でダクチュンに行きますからご案内しましょう」との申し出があった。

 しかし、その名を知るのは同行の建築家加藤隆久さんだけ。彼によればそこはベトナム国境に近い山中で、独特な茅葺きの家を建てる少数民族が住む、日本でいえば「飛弾の白川郷」のような秘境とのことであった。

 もちろん二つ返事でお願いし、翌朝8時出発ということになった。現地は旅行者はもちろんのこと、「国境なき医師団」やUNDP(国連開発計画)などのごく限られた国際協力団体しか入れない、外国人立ち入り制限区域であり、日帰りしなければならない。



出発

 まず市場で昼食を仕入れ、教育委員会の4輪駆動車で出発する。目的地まで約100km、片道3時間半の山岳ドライブの始まりだった。なお、いつぞやTV番組「ウルルン」で紹介された「ンゲ(蛇)族」の集落は舟でこの川をさかのぼって行ったところにある。

 ちなみにセーコーンのセーとはこの地方で「川」で、つまり「コーン川」という意味。またダクチュンのダクは別の言葉でやはり「川」のことで、「チュン川」ということになる。首都ビエンチャンあたりの標準ラオ語では川のことは「メーナーム」と言い、こんなところにも多民族国家の様子が伺える。

 ダクチュンに至るこの林道は以前フランス軍が造ったもので、ひたすら谷へ下り山を巻いて続く。途中、川を4個所渡るが、橋はなく車で渡河することとなる(上の写真参照)。小さな流れも数えれば10個所以上になる。たいした水深ではないが、普通の車ではまったく無理。もちろん雨季ともなればどんな車でも通行は不可能となる。それでも人間が渡れるほどの吊り橋はどの川にもかかっており、教育長は試験の時期ともなれば自分で問題を背負って、途中の村に泊まりながら3日がかりで歩いて行くとのこと(写真参照)。


 
 

 ラオスの国土は日本の本州くらい、人口は約480万人('95)で主に平野部に住むラオ人が50%、あとの50%は50以上の少数民族グループが占め、その大部分が山間部に住んでいるといわれる。中国雲南地方とならんで言語学者や文化人類学者には絶好の研究対象地といえる。ちなみに慶句氏がタイ語を習った先生はその後ラオ語に転じ、2年間留学して全土を調査したとのこと。その東京外語大の教え子が、現在ダルニー研修旅行のボランティア通訳の久保田さん(旧姓淵上さん)です。
 



村への行程

 走り始めてすぐに材木トラックを2台追い越したほかは行き交う車はまったくなく、谷への上り下り部分を除けば路面もおおむね良好だったが、急カーブもたくさんあり、平均時速は30kmがせいぜいといったところ。アップダウンを繰り返しながらだんだんと高原地帯に上って行く。このあたりは熊や猪はもちろん、虎もまだ生息するという地域。材木はかなり伐採が進んでおり、ラオスの重要な輸出品になっている。("牛山の怪"・・・地元の人々の話では、この「牛山」をバックに写真を撮ると見知らぬ女性の姿が背後に・・・ええっ!やっぱり、写ってますかあ・・・?)

 やがて視界が開け、浅い谷をはさんだ両側にのどかな草原が広がった。おお、こここそあの桃源郷かシャングリラ、いやいやセーコーン県ダクチュン郡の中心地、ダクチュンです。標高は1,200-1,500メートルほどだろうか。乾期でもあったのでまさに避暑地の高原のようなすがすがしく、日差しは強いのにさわやかな風は肌寒いほどだ。

 教育長の案内で学校にお邪魔し、見学の許可をもらってから職員室で昼食を済ませ、いよいよ「ダクチュン郷」訪問となった。なお、このような交通の不便さから、ここはまだダルニー奨学金の対象になってはいないが、候補地にはなっているとのこと。(注:ダクチュンの学校には遠くの生徒のために寮もある)



ダクチュン郷

 ダクチュンの町(とはいっても放牧場に家が散在しているような印象ですが)にある家はほかの地方と同じ高床式のポピュラーなものだが、まず案内されたゴーンドーン村にはまさに飛騨の白川郷の合掌造り(右写真)を彷彿とさせる屋根の家が建ち並んでいた。 


 もちろん建築法も建材も規模も違いますが、なにか日本人をなごませる眺めだ。しかし、こんな熱帯の国で、まるで厚いフェルトの帽子を目深にかぶったような家の造り方は異様な感じもする。特に屋根が分厚く、その傾斜も急角度だ。家は高床というよりは高めの縁の下つき、といった感じで短いはしごで上る。

 このはしごも太い丸太に段を切り込んだもの。中は広い一間で囲炉裏にいつも火が燃やされ、家の中がけむいところも合掌造りに似ている。しかし合掌造りでは破風の部分に窓があって明かり取りになるが、ダクチュン造りに窓はなく、しかも軒と床の間がせばまっていて、室内は昼なお暗い。囲炉裏の上にはとうもろこしがつり下げられていぶされ、保存食となっている(写真参照)。 
 

 もう一つの特徴はこまめに張り巡らされた塀だ。集落そのものを囲い、中の何軒かの敷地を(たぶん血縁ごとに)また囲い、畑もきちんと囲われている。それも柵ではなくて隙間のない板塀なのだ。そういえばここからダクチュンに入るという地点には道路の両側の木に渡してある綱をくぐったが、なんとなく日本の注連縄や鳥居を思い出す。単なる縄張りでなく一種の結界を示すものなのかもしれない。右下の祠のようなものは前村長の墓だという(魔除け?の牛頭蓋骨も)。

 
 
 
 
 



彼らはどこから・・・

 もう一個所、ここの地名のもととなったダクチュン村へ行ってみると、廃屋が多く、傷むに任せた屋根がゴーストタウンのような雰囲気を漂わせている。これも日本の茅葺き屋根と同じように、今では普通の家より材料費も建築費もかさむためもう新しく建てられることはないのかもしれない。なかには茅葺きの家に普通のタイプを継ぎ足したものもある。昼間なのでおおかたの住人は畑に出ているのか人気はなく、幼い子どもたちだけが留守番をしている家があるかと思えば、青年たちが昼酒パーティを開いている家もある(完全に酩酊中の若者の姿も)。 

 さて、一体、いつどこからやって来た人たちがここに住み着いてこういう家を建てるようになったのか?教育長も興味を持って調べようとしたが、記録も伝承もなく彼ら自身の口から正確なことは何も分からない。それでもその祖先が東南アジア南部にやってきたのはかなり古く、2,3世紀ということになり、北から来たラオ人とは違って、カンボジア人と同じくそのルーツは南のインドネシア方面と思われるとのこと。

 ここダクチュン郡に住むのは主にタリアン、イェー、トリュー、ダッカンの各グループで、合計の人数は約17,000。少ないと感じられるが、セーコーン県の全人口が64,000人('95)であり、多い方と思われる。なにしろ人口密度が8人/平方キロという超過疎地帯なのだ。生活は基本的に自給自足で、作物は米、トウモロコシ、タロイモなどである。 

 この日(2001年2月1日)は気温23度で湿度も低く、こんなラオスの軽井沢のような所なら別荘の一軒も欲しいものだと思う。しかし後で郡長さん(写真参照:茅葺き家をバックのご夫婦)の話を聞いたところ、「今日はとても暑いです」と言われ驚く。しかも1年の三分の二は雨だそうで、このような家を造る理由に納得した。
 

 普通の熱帯の気候ならもっと簡単な構造にして風通しをよくするはずと考えられる。また、ここに住むどのグループも「ダクチュン造り」の家を建てるが、内部の装飾はそれぞれに異なる。家を捨てた人たちはどうしたのか?これはダクチュンの町に引っ越したり、もっと便利な生活を、との政府の政策もあって、山を下りた人も多いようだ。
 



貴重な文化

 帰路時間の許す限りいろいろなグループの村に立ち寄った。祭りや儀式の際には水牛を生け贄にするカリアン族(日本ではカレン族と呼ぶ)、大家族が大きな家に一緒に住むアラック族。これはインドネシアの「ロングハウス」を思い起こさせる。彼らは「ラオ・トゥン」と呼ばれる中高地ラオ人だが、ほかにもンゲー、ラウィー、チャートーン、カセーン、スエイ、タオーイ、カトゥーなどのグループがある。最近はグループ同士の交流もあり、たとえば伝統的にそれぞれのグループに固有だったデザインが混在する織物の例もあるそうだ。
 

 余談だが、この一帯はベトナム戦争中に北ベトナム軍の補給線だった「ホーチミンルート」が通っていたため米軍による大規模な爆撃を受け、いまでも爆弾が破裂したあとの大きな穴がたくさん残っている。爆撃の痕ー総量で第二次大戦中を上回る規模の爆撃が行われた弾薬筒を塀がわりにしている家があったり(写真)、学校には「不発弾に注意」のポスターが貼ってあったり、こんな山奥の村も戦争に巻き込まれていたことが実感される。写真は弾薬筒で作った塀と爆弾で出来たクレーター。今でもラオスでは不発弾のため毎年数百人が被害に遭っているという。その多くが15歳以下の子供達だ。

  



そして・・・

 夕方7時過ぎにラマームに帰り着き、興奮さめやらぬ一行は教育長と夕食をとりながら今後のダクチュンについてなおも話し合った。「これだけの建築技術が廃れてしまうのは惜しい。国の補助で保存できないものか」「アクセスは悪いが観光地として最低限の施設を整備し、外国人客を呼んでその収入を保存・修復に当ててはどうか」「いやまず世界遺産登録をめざそう」などなどいろいろな意見が出された。しかし、いかんせん国家予算の30%をまだ外国援助に頼る重債務貧困国としては、せっかくの文化財なのにその保護まではなかなか手が回らないのが実状のようだが、出来れば今の文化を保持しつつ平和な生活を営んでほしいと願うのは私1人だけではあるまい(完)。



 Copyright (C) 2002 Mr.Hideyuki Aomatsu, and Toshio Kajiwara, All Rights Reserved. Supported by Minsai Center, Tokyo
HP表紙、背景の「ガルーダ」はラオス北部の村 Xam Neuaの寺院における壁画写真を画像処理したものです。